対極的な二人 

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先に言っておきます。

毒吐きますww


多分、面白くない話です。

そして本当は書こうかどうしようか、迷ったのですが、
気にして下さっていた方がいらしたので、書こうかな・・・と。

内容としては、末期がんの父親のことです。

ですので、楽しい内容では100%ありませんので、
閲覧注意ですよ!!

と、いうことで追記に書きますので、私の吐く毒に耐えられる自信のある方のみ、
お読みいただければと思います。

また、これは本当に独り言というか、私個人の想いですので、
共感して欲しいとか、何か意見を求める訳でもないので、コメント欄を閉めておきます。


ここまで書いたのに、仮に読んで頂けて、胸クソ悪くなっても、
苦情は受け付けませんので(笑)









記事タイトルに書いた ” 対極的な二人 ”


これは私の亡き母親と、末期がんと告知され、余命数か月と言われてから、
早3か月目を生き続けている父親の話です。


昔から、 終わり良ければ・・・ なんて言葉がありますよね。

あれって本当にそうだと思います。


私の亡き母は、最終的には老衰に近い状態ではありましたが、
間質性肺炎を20年以上患って、晩年は鼻から酸素を送ることで、
やっと呼吸が落ち着くといった状態で、寝たきりでした。

そんな母親の介護を、私と一緒に結婚前のパンチが献身的にしてくれたおかげで、
旅立つギリギリまで、自宅で介護生活を続けられたと思っています。

そういった部分では、母はある意味で幸せだったのかもしれません。

けれど私も仕事をして生活費を得られなければ、
介護を続けることは出来なかったので、日中は母を一人にしている時間が、
正直長かったのです。

でも、寝たきりでしたので、訪問介護のヘルパーさんを1日2回来て貰って、
朝食と昼食を食べさせて貰ったり、他の介護などもして貰っていました。


実際、医者からは自宅に連れて帰ったら、
1週間も持たずに亡くなるよ・・・なんて言われていました。

けれど、自宅に帰りたいと泣きながら頼む母・・・
『 らいふが大変だろうけど、出来る限り手伝う!』 と言ってくれたパンチのお陰で、
自宅に連れ帰りることが出来ました。

そして結果的に半年以上も自宅で一緒に生活できたのです。

ある意味、病院で居る時よりも、元気だった時もあるくらい・・・。

しかし、最後が近づいてきた時、遂に母親から入院したい・・・と言われました。

もう自宅で一人でいる時間に不安があることと、
呼吸が苦しくて、発作的な咳が止まらなくなってきたことが原因でした。

そして入院をした時に、母に謝られました。

自分のせいで、私が結婚も出来ず、本当に申し訳ないと・・・。

結果的にパンチに結婚前から介護生活を手伝ってもらいましたが、
やはり結婚してすぐに介護生活は、申し訳ないと思い、結婚はできないと、
パンチに話していたのです。

母にすれば、パンチのことを娘のように想ってくれていたので、
早く結婚して欲しいと願ってくれていたのでしょうけど、なかなかね・・・。

でも、決して自分から謝る人ではなかったので、
謝られた時に、いよいよ別れの時が近いんだな・・・と、
改めて感じました。

ただ、それがいつか分からないこともあり、私は仕事に出続けていました。

また、母も自分が他界したとしても、
その後も働いていかなければならない私のことを思い、
決して仕事を休んでそばに居て欲しいなんて言いませんでした。

まぁ、私が居ない時に、出来る限りパンチがそばに居てくれたお陰で、
寂しさは軽減出来ていたからかもしれませんね。

それでも、パンチが実家で用事があり、入院した2日目に実家に行くことに。
そして私の母に『 待っててね! 』 と伝え、実家へ。

その翌日でした。

私はその日も仕事へ行っており、帰宅したのが、夕方の6時過ぎ。

それからすぐに病院へ向かったのですが、
すでに母親の容体がおかしいことに気が付き、看護師を呼ぶ。

間もなく担当医師が来て、診察をしてから私に言いました。

『 親しい方とかを呼んでください。 お別れの時が迫っています。 』

私は慌てて、兄に連絡し、その後パンチへ。

そして私たち親子、そしてパンチのことも可愛がってくれている、
親戚のおばさんに連絡。

そうしている内に、看護師が私を呼びに来る。

『 急いでください! もう・・・ 』


私は急いで母の病室へ。
そこにはゆっくり・・・本当にゆっくりと深い呼吸をする母が。

延命処置はしないで欲しいという母の希望を叶える為、
担当医師も静かに見守っています。

私はせめて兄が来るまでは、生きていて欲しいと・・・
パンチに最後会って欲しいと願って、大きな声で母を呼びました。

何度も・・・何度も・・・。

でも、母の呼吸はだんだん間隔が開き、
最後に大きくしたと思ったら、そのまま静かに止まりました・・・。


そこで私は初めて泣きました。

そして看護師さんたちが、母の体などをきれいにしてくれている間、
近くに座っていたら、看護師さんが近くにきて言いました。

『 多分、息子さんを待っててくれたんだね。顔を見てからお母さんは逝ったんだね。 』 と。


最後まで、泣き言も言わない。
むしろ迷惑をかけたことを誤ってきた母親。

本当は最後が近づいてきている時、そばに居て欲しかったんだろうな・・・。
そんなことも思ったりもしました。

自宅から車で2時間以上離れている実家に帰っていたパンチが、
私の連絡を聞いて、すぐに車を飛ばして駆けつけてくれたことが、私的に嬉しかったのですが、
パンチは、ずっと悔やんでいました。

私が居ない時に・・・なんで待っててくれなかったの? と。

でも、最後の死に顔は看取ったものには残ると思います。

その悲しみを、パンチに背負わせたくなかったという優しさだと、
私は思っていました。

そして私よりも気持ちが弱い兄にも、最後の顔を見せなかったんだと思います。

私に対しては、最後までわがままを聞いて、自宅で介護をして貰ったから、
礼儀として、待っていてくれたのかもしれませんね(笑)

でも、今でもこうやって、この時のことを思い出す度に、
泣いてしまっています(笑)


そう、私にとって母の最期って、本当に親が子を想いながら・・・
自分の命のことよりも、残される人のことを想って逝く・・・。

そういう最後だったと思っています。



それに比べ、私が12歳の時に、浮気して、私の父親を止めた人。

母が他界してから、何かと連絡をしてくるようになりました。

確かに、母が他界してから、色々と良くしてくれたこともあり、
少しは親子関係の修復をしてきたのは確かです。

それでも、まだまだ親戚の叔父さんに近い感覚だった私たちの、
おかしな親子関係。


まぁ、この微妙な距離感を縮められなかった大きな原因の一つは、
浮気相手だった人が、現在の再婚相手で、その人は私を息子とは思わず、
完全に距離を置いて接しているからでしょう。

まぁ、これは人情的に仕方ないでしょうけどね(笑)

でも、そんな状態の中でも、愛娘いちごが授かったことにより、
なるべく会せたりして、私やパンチと上手く関係が修復できなくても、
せめて孫であるいちごとの関係が築けたら・・・と、思っていました。

しかし、その矢先に突然の・・・ 末期がん宣告。

そして余命は数か月・・・もしかしたら、明日かもしれない・・・。

そこまで医師に言われたことにより、父の思考は変わりだしてきました。

自分が末期がんだと知るまでは、自分はいつ迎えにこられても、悔いはない。
いつ死んでもいいんだ・・・くらいのことを言っていたのに、明らかに変わっていきました。

これも、ある意味仕方ないことだ・・・と、思いながら接していました。

がん告知から、数週間が経過してくるにつれ、肺ガンである父の体は、
かなり痛みが出てきたようで、遂に入院することに。

そこで、点滴による痛みを緩和する薬を投与。

元々延命治療は受けたくないと言っていた父。

医師からは抗がん剤治療は、延命処置の一つですと言われた為に、
抗がん剤治療は一切拒否。

唯一痛み止めの薬だけ投与をして欲しいと、
医師に頼んでいました。

しかしどんどん病魔が進行することで、痛みも増し、
痛み止めの強さも、どんどん増している。

そして本人的には、まだ半年くらいは生きれると思っていたのが、
どんどん自分の体が思うようにいかなくなることへの恐怖、不安。

これにより、完全に冷静さも失われつつありました。

感情の起伏が激しくなり、笑っていたと思っても、
自分の余命のことに関することになると、血相を変えて怒鳴ったり・・・。

完全に死への恐怖。

そりゃそうでしょうね・・・怖いですよね、誰だって。

でもね、格好つけて散々言ってたのは誰なんだ? と、私は思っています。

最初の内は、仕方ないと本当に思っていたし、その姿を見ることに、
悲しみさえ感じていました。

しかし、昨年12月15日にお見舞いに行った時です。

感情がまたブレ始めて、私にどんどん文句をつけてきました。

元気な時に、散々私に・・・

『 俺は好き勝手やって、お前たちを捨てた立場だ。父親の資格なんて無い。 』

なんて言っていた人が、

『 なんで親がガンで死にそうだって言ってるのに、仕事も休めないんだ? 』

『 なんで俺が頼むことを、快くやってくれないんだ?
 もう死ぬんだぞ? 俺に言わせたら、親の為にやらないなんて、おかしい! 』



このセリフを聞いた時に、私の中で、何かが飛びましたね。
完全に呆れ果ててしまいました。

私にすれば、最後が近づいているからこそ、家族3人で見舞いに行きたいのに、
孫が来ると疲れる、嫁が来ると疲れるみたいなことを言って、
私一人で来ないのがおかしいとかと言いだしていたのです。

独り者なら当然ですが、妻帯者なら、普通家族で見舞いに行くもんじゃないのかな?

また、少なからず孫がかわいいと思うなら、嫌がるのかな?

この人は、結局どこまでいっても自分がかわいくて、
自分の思い通りにならないと、怒鳴り散らす人なんだ・・・


そう感じた時に、余計に亡き母のことを思い出し、
自然と比べてしまうのです。

父の言い分としては、再婚相手の義理のお兄さんが、色々やってくれているのに、
自分の息子二人は、全然協力してくれない。

何か頼んでも、すぐに仕事を休んで対応してくれない。

そんなことを言っていました。

元気な時に・・・

『 俺は死ぬ時に、お前たちには迷惑はかけないで、勝手に死んでゆくから。 』

なんて言っていた人ですよ?

麻薬入りの痛み止めの投与量が増え、意識が普通じゃない為なのか、
ガン細胞が、脳にまで転移してしまったのか?

こればかりは分かりませんが、ただ一つ言えることは、
私は完全にキレてしまいました。

『 父さんの言ってることは、支離滅裂で理解できない!
 だめだわ、それじゃあ。 』


この時、改めて思いました。

12歳の頃から、私は一度も父を許してなんていなかった。

ただ、恨んでも、憎んでも前に進めないから、感情を殺していただけだと。

父親と思うから恋しくなるし、甘えたくなるが、居ないと思うことで平常心を保てる。

そう思いながら生きていたんでしょうね。

それがこの最後の最後で、足掻き、苦しみ、最後には自分が父親なんだから、
言うこと聞け的なことを言われたことにより、殺していた感情が目覚めたのでしょう。

もうこうなると無理です。

ですので、12月15日以来、父には会っていないし、
連絡もとっていません。

まぁ、再婚した奥さんから連絡が無いのだから、
まだ他界はしていないと思いますが・・・。

私の代わりに兄が、出来る範囲やっているそうですが、
奥さんから煙たがられているように感じるらしく、やはり距離を置く感じでした。

父にすれば、実の息子と少しでも話したかったのかもしれませんが、
選んだ伴侶がね・・・(笑)

でも、それも父が選んだ人生ですから。

そして、4人も子供が居て、一番時間も金もかけた長男・長女とは、
連絡も取れないという哀れな人生を選んだのも自分ですからね。

4人兄弟の一番下で、一番父親をやってくれた時間が短い私に、
文句を言うのはおかしいと思っています。

この話をパンチにした時・・・

『 分かっていたよ、許していないって。 』

と、きっぱり言われました(笑)

自覚してなかっただけなんですね。

と、長くなってしましましたが、そんな訳で、父親孝行をしようと思っていましたが、
無理でした(笑)

多分次に会うのは、本当に最後の時か、他界してからかもしれません。
また、それでも構わない・・・と、思っています。

そんな黒い心を持ったまま、新年を迎えちゃいました(笑)

新年早々ぶっちゃけ過ぎですが、気にしてくれていた方の為に、
書いてみました。

ご心配おかけしていましたが、そんな訳で決別してます(笑)

やはり一緒に過ごした時間の長さや、性格の不一致など、
親子でも難しいですね。

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