最初に言っておきますが・・・
私は宗教とかの勧誘とかではありません(爆)
でも、これから書くことは、人によっては・・・
” そんなの偶然だよ。 ”
” そんなこと、ある訳ないし。 ”
” 作り話? それとも何か悪い薬でも飲んだ? ”
と、思われるかもしれない話を書いていきます。
ですので、本当にご興味の無い方は、読まないで下さいね。
また、これは私とパンチにしか、信じられない話かもしれないので・・・。
では、ご興味のある方だけ、 ” 続きを読む ” からお願いします。
さて、タイトルに書いた、
” 生まれ変わり・・・信じますか? ”
って、話についてのことを、書いていこうと思います。
正直今まで、そんな話をテレビでは観たり聞いたりしたことがあったけれど、
実際に目の前で見たり、体感しないと信じられませんよね。
というか、人間は自分が体験・経験しないことを、なかなか信じることは出来ない生き物ですから当然かな。
でも、今までの流れを、順序立てて考えてゆくと、
” もしかして・・・? いや、そうなのかもしれない。 ”
と、ゆっくりと私に認識させてくれました。
まー、パンチはすでに信じているようですが(笑)
それは、先日の10月21日の検診で、ハッキリと思ったんです。
少し過去に話を戻しますね。
私は2011年6月9日まで、母親の介護をしていました。
そして入籍前のパンチも、私と一緒に母親の介護をしてくれいました。
この約半年前に、緊急入院をして、一命を取り止めた母親は、もう手の施しようがない状態なので、
通常の病院では入院を続けることは出来ない・・・と、言われました。
年齢は70歳で、認知症ではないのですが、肺を患っていて、鼻から酸素を送りこまないと、
自発呼吸だけでは生活が困難な状態だったのです。
その弱った肺が、さらに悪化(間質性肺炎だったんです)、ほぼ寝たきり状態になるので、
特別養護老人ホームなどか、病院が提携しているある意味の”看取り介護施設”への入所を薦められました。
この時、私は本来ならばそういった施設へ入所させる方が、母親の体のことを考えれば良かったのかもしれませんが、
認知症でもなく、体が悪いだけで、私やパンチと冗談を言いながら笑える母親の、
残りわずかかもしれない最後の時に、誰も知らない施設へ入所させることを、悩みました。
また、母親自身も・・・
『 施設へは行きたくない・・・。 頼むから、家に帰らせて・・・。 』
と、涙ながらに訴える母親に、どうしたら良いかを、思い悩んでいました。
私自信が、日中働いて、母親の面倒を看ていたので、この状態で自宅へ連れて帰るのは、かなり危険tが伴います。
ましてや、この時入院していた病院の看護婦長からは、
『 自宅介護!? そんなことしたら、1週間持たないかもしれませんよ!! 』
とまで、言われました。
母親の最後の希望を聞いてやりたい・・・だけど、それは私の自己満足な行為であって、
もしかしたら、母親の死期を早まらせるだけのことじゃないのか・・・?
そして、仮に自宅へ連れ帰ったとしても、とても私一人じゃ無理だ・・・。
そう悩んでいると、パンチが言いました。
パンチ 『 らいふは、お母さんをどうしたいの? 』
らいふ 『 自分だとして考えたら、自分の最後は家で死にたいよ・・・。
だから、そう考えると、本当は家に連れて帰ってやりたいんだけど・・・。 』
パンチ 『 私がいるでしょ? 一緒に応援するよ。 それなら出来る? 』
今でも、この時のパンチの気持ちを忘れません。
本当に嬉しかったから。
普通に自分の親でも介護をするって、大変なことなのに・・・。
そして、まだ結婚すらしていない私の母親の最後を看取ることになるかもしれないのに・・・。
また、パンチは私の母親のことを、
” お義母さん ” ではなく、 ” お母さん ” と、メールでも言ってくれていて、
一度もお義母さんと呼ばなかったことも、嬉しかった。
パンチが一緒に介護をしてくれると、言ってくれたことで、決断が出来た私は、
その時住んでいた地元の、ケアマネージャーをパンチと一緒に訪ねて、色々相談した。
このケアマネージャーも凄く良い人で、正直厳しい内容だったのにも関わらず、
良心的に協力をしてくれて、とても良いデイサービスも紹介してくれました。
また、母親の主治医がいる病院は、住んでいる実家からだと、車を飛ばしても1時間はかかる場所。
なので、地元の病院の先生に主治医になって貰いたいと伝えた。
正直、病院という所は毎年死亡患者数などは、ある意味病院の評価に関わるみたいで、
もう長くない人とか、末期の患者を受け入れてくれる病院や、主治医になってくれる先生は少ないと聞いたりしていた。
しかし、高齢化が進む田舎ならではなのか、地元の厚生病院の院長が主治医に快くなってくれて、
尚且つ、通院が厳しいと伝えると、往診にも来てくれることになり、病気への最低限のケアは出来る体制が出来た。
そして次に、ケアマネージャーと相談して、私が仕事で居ない日中に、私が支払える限界ギリギリの介護料金で、
毎日どの程度ヘルパーさんが入れるかの計画や、予算算出をして貰いました。
パンチももちろん協力はしてくれるのですが、この時はまだ、同棲していた訳ではないので、
ずっと泊まり込み・・・という訳にはいかないので、やはりヘルパーさんの助けが必要でした。
母親の要介護度を、まずは決定して貰って、その介護度に応じて国や市町村からの援助金などがあり、
補助プラス、私は月4~5万以内の介護費用でお願いしました。
すると、毎日の訪問で、午前・午後の2回(朝食・昼食)の介護をして貰えることに。
夕食は、私が仕事から帰宅してから、やると言うことで、決定。
本当は、もっと長い時間は入れるようにして貰いたかったけど、費用的な問題で、
1回1時間が限界で、1日2回2時間でした。
そしてケアマネージャーとヘルパーさんを含めた、介護計画相談をした時に、
私が最初に伝えたことは・・・
らいふ 『 本当に申し訳ないのですが、病院からは連れ帰ったら1週間も、もたないかもしれないと言われました。
ですので、もしかしたら、訪問して頂いた時に、亡くなっている場合もあるかもしれませんが、
大丈夫でしょうか? 』
この件は、ケアマネージャーには話していたのですが、ヘルパーさんとは初対面だったので、
最初に伝えておこうと思ったのです。
するとお二人は・・・
ヘルパーさん 『 あの・・・ケアマネさんから、お話は伺っております。
一応その覚悟も持った上で、私たちの出来ることを一生懸命させて頂きます。 』
これで、事前に用意出来ることは、全て手配した・・・そう思い、母親が入院している病院へ行き、
母親に伝えました。
らいふ 『 かぁ(母親を私は”かぁ”と呼んでました(笑))。
やっと段取り付いたから、〇〇日に退院して、家に帰るぞ。 』
そう伝えると、母親は泣いていました。
家に帰りたいと言ってはみたのものの、私に負担がかかり過ぎると思い直し、
施設に入ると言っていたので、まさか帰れるとは思わなかったのです。
らいふ 『 パンチも一緒に手伝ってくれるって言ってくれたから、連れて帰れるんだからな。
あ! でも、ボケたら施設行きね! 』
などと言いながら、母親を安心させたのち、看護師の詰所へ。
らいふ 『 婦長さん、お待たせしました。 』
婦長 『 あ! どこか受け入れてくれる施設が見つかりましたか? 』
らいふ 『 いえ、自宅に連れて帰ります。 』
婦長 『 ええ!! だって、連れて帰ったら、もしかしたら、すぐにでも・・・。 』
らいふ 『 分かっています。 でもね、もしそうだったら余計に最後は自宅で迎えさせてやりたいんです。
本人も、施設に入るより、自宅の方が大変だし、辛いのも分かった上で帰ると言ってます。
また主治医も、地元で引き受けて頂きますので、もうこちらにご迷惑はおかけしませんので。 』
そう言って、退院予定日を伝えて、婦長との話を終えた。
正直感じが悪い婦長だったので、これ以上話したくなかったのだ。
それから退院予定日までの間に、パンチに協力して貰って、電動ベットやパジャマ、下着などの準備。
ほんと色々なことをバタバタとこなして、いよいよ退院の日。
もしかしたら、連れ帰ったその日に亡くなるかもしれない・・・。
そんな不安もありながらも、この日は兄も仕事を休んで来てくれていた。
当然パンチは一緒にいる。
車で実家に連れ帰ると、ケアマネージャさんやヘルパーさん達がすぐに来て、
挨拶やら、色々な説明やらをしてくれた。
なにより、もう帰れないと思っていた母親が、
自宅に帰れたことを喜んでいた顔が印象的だった。
自宅に帰ってきた母親は、明らかに病院に居た時に比べ、明るく元気だった。
とても1週間で、亡くなるような雰囲気は無かった。
それでも、私が寝ている間にゆっくりと息を引き取って、朝見たらもうすでに・・・
なんて事があるかもしれないと、最初の内は毎日心配していた記憶が残っている。
しかし、そんな私やパンチの心配をよそに、母親はその後、約半年も生きてくれたのである。
ちなみに、主治医変更で、今までのカルテなどを貰いに、入院していた病院へ行った時に、
婦長が駆け寄ってきて・・・
婦長 『 〇〇さん! お母さんは大丈夫ですか? 』
と、尋ねてきた。
正直少し驚いた。
もしかしたら、私はあの時、色々思い悩んでいて、この婦長を悪く見ていただけかもしれない・・・。
だって、どうでもいい患者のことなら、わざわざ聞きに来ないよな。
そう思いながら、
らいふ 『 なんとか大丈夫みたいです。 と、言ってもいつ急変するかは分かりませんが。
ケアマネやヘルパーさんに恵まれて、良い状態で生きていますよ(笑) 』
婦長 『 良かったねー! 息子さんと、お嫁さんが一生懸命だから、みんな協力してくれるんだね! 』
そう言って、笑ってくれていました。
本当は、悪い人だった訳では無く、私が心に余裕が無かっただけかもしれなかった・・・と、少し反省しました(笑)
その後、母親の調子が凄く良くなってきて、本当に元気だなーと、思う時期がありました。
母親が亡くなった時に、その話を親戚のKおばさんに話したら、
Kおばさん 『 それは ” 中治り ” かもね。
ほんと凄く元気になって、病状も落ち着いたのかと思うんだけど、それは一時の話なんだよ。 』
と、話していた。
確かに、このKおばさんがいう ” 中治り ” という期間が終わったかのように、
母親の容体は急変し始め、自宅ではさすがに無理と言うことで、緊急入院をした。
入院して、すぐに院長に、
院長 『 〇〇さんね・・・、いつ逝っても不思議じゃないからね・・・。
ところで、延命処置はどうしますか? 』
延命処置・・・これは母親自身も望んでいなかった。
そして、私自身んも、自分に置き換えた時に、して欲しいとは思っていない処置。
実際母親とも、この話は何度かしていて、延命処置はしないと決めていたので、その旨を伝えた。
すると、院長は黙ってうなずいていた。
院長 『 あとね、お母さんは、肺などの痛みなどで苦しくて眠れないようだから、
ちょっとキツメの薬で、眠っている時間を長くするからね。
その方が、お母さんも呼吸が楽で、身体に負担が少なくて済むから。 』
院長に処置は任せることにして、部屋を出た。
今までも、正直何度も母親は危ない時があったが、その都度乗り越えてきた人だった。
だから、院長に言われた言葉も、どこかしっくりはこなかったのだ。
入院して1日・・・2日と過ぎてゆく。
仕事が終わってから私は病院へ顔を出して、それから帰宅という日が続いた。
そして、この頃にはパンチはもう一緒に実家でほぼ同棲をして介護をしてくれていたのだが、
パンチの実家に、どうしても帰らなくてはならない用事が出来て、
私の実家から車で1時間半くらいかかる実家へ行くことになった。
パンチは、母親にあさってには帰ってくるから、帰ってきたらまた来るね・・・と伝えたそうだ。
そしてこの日の夜に、私も母親に会いに行っていた。
色々な話をしたりしていた時に、不意に母親がぽつりと言った。
母親 『 ごめんね・・・色々迷惑かけてきて・・・。 』
らいふ 『 なんだよ急に!! 別に迷惑とは思ってないし(笑) 』
母親 『 もう帰りな、仕事で疲れてるんだろ?
明日は来なくて良いから、ゆっくり休みなさいよ。 』
らいふ 『 分かったよ、じゅあ、明日は来ないで、あさってくるから。 』
今まで自分から、謝ってきたことが無かった母親。
それくらい気が強くて、減らず口ばかりを叩いていた母親・・・。
私は兄に電話して、
『 自分から謝るなんて・・・、もしかしたら、本当にヤバイかもしれないからね。 』
と伝え、病院の看護師にも、何かあったら何時でも構わないから、連絡が欲しいと伝えて帰った。
そして、翌日は本当に仕事も遅かったりで、病院へは行かなかった。
今思えば、行っていれば良かったのに・・・。
そして、母親と話してから2日後、仕事が終わってそのまま病院へ向かった。
パンチは戻ってくる予定がズレて、翌日に戻ってくるはずだった。
病室へ入ると、母親の様子がおかしい。
確かに院長から、眠っているような状態になる薬を投薬されているとは聞いていたが、
これは明らかにおかしい!!!
慌てて看護師に伝え、先生を呼んでもらった。
院長 『 息子さん、親しい人たちを呼んであげて・・・。 』
私は慌てて病室を出て、兄やパンチ、親戚の叔母さん達に電話した。
そして電話をかけている最中に、看護師に呼ばれた。
看護師 『 〇〇さん!! 病室へ戻ってください!!!』
私は急いで病室へ戻った。
すると母親の周りに、院長と数名の看護師が立っていた。
母親は、とてもゆっくり大きく呼吸をしていたが、明らかに顔の筋肉が緩んでいる・・・。
表現が難しいのだが、魂が抜けかかっている・・・という感じが伝わってくる表情だった。
らいふ 『 かぁ!! かぁ!!! まだ兄ちゃん来てないんだぞ!!!
かぁ!!! がんばれよ!!!
かぁ!!!!! パンチだってまだ・・・。 』
私は母親の方を揺すりながら、何度も叫んだ。
ゆっくりと、母親は呼吸を止めた。
らいふ 『 かぁ!!!!! 』
延命処置をしないということが、こんなに辛いとは思わなかった。
よく医療ドラマなどで見る、呼吸が止まった後の心臓マッサージや、電気ショックなど一切せずに、
母親の周りで静かに、 ” 最後の時 ” を見守っているのだ。
私は自ら希望したとはいえ、せめてパンチや兄に最後に会わせたかった。
呼吸を止めた母親を、看護師たちが綺麗にしてくれている間に、私は椅子に座りこんでいた。
すると私や母親に良くしてくれていた看護師の一人が近付いてきて、私に話しかけた。
看護師 『 お母さん・・・最後まで頑張ったね。
多分お兄ちゃんが来るのを必死に頑張って待ってくれていたんだろうね。
お兄ちゃんにだけは、別れを言いたかったんだろうね。 』
小学5年の時に両親は離婚し、その時から母親とは一緒に散々苦労もしたし、
喧嘩もしてきたが、一番長く過ごしたのは私だった。
その私にだけ、最後の死に顔を見立てくれたのかもしれない・・・。
ゆっくりと現実を受け入れつつ、呆然としている内に、一番近くに住んでいた、親戚の叔母さん達が来てた。
その頃には、ある意味少しずつ私は意識が戻ってきていた。
そして、普通に考えても電話してから1時間弱くらいで来れるはずのない場所に居たパンチが駆けつけてきた。
パンチ 『 明日には帰ってきてたのに・・・。 』
そう母親を見ながら泣いてくれたパンチに、
らいふ 『 かぁは・・・、死に顔を見たら頭に残る・・・って言うから、パンチに見せないように、
出掛けてる間に、逝ったんだよ。 』
本当にそう思ったし、母親は余計な事はたくさん話すクセに、大事なことを伝えるのが下手な人だったから、
パンチのことを想って、そうしたのだろうと思った。
後日、母親の葬儀の準備などしたりしている時に、生前母親と一番仲が良かった親戚のKおばさんが、
パンチに声をかけてきた。
Kおばさん 『 パンチちゃん・・・ありがとね。
お母さんは、本当に喜んでいたんだよ・・・。
パンチちゃんが ” お母さん ” って呼んでくれて、本当にいい娘なんだ・・・って。 』
それを聞いて、私もパンチも嬉しくて、涙が出てきていた。
そして、結婚はしていなかったが、母親はパンチをちゃんと嫁として見てくれていたのだ。
この話を聞いて、私は決めたのだ。
本来葬儀の席を決める時に、家族が一番前で、その後ろに血のつながりの近いというか、強い親族が続く。
で、この時点では、パンチは私の彼女であり、まだ嫁ではないので、本来なら”一般参列席”になるのだ。
しかし、私はここまで私と母親を支えてくれたパンチを、そんな存在にしたくないと思い、
親戚の叔父さん・叔母さん達に頼み込みました。
らいふ 『 本来なら、叔父さんや叔母さん達が先に座るべきだし、焼香もあげるのが先なんだけど、
入籍してないけど、パンチを俺の嫁待遇で、叔父さん・叔母さん達より先に焼香もやりたいんだけど・・・。』
すると、私とパンチが母親の介護を一生懸命やっていると、話が親戚内で回っていたらしく、
叔父さん 『 おぉー、おぉー、そうしてやれ。 ワシ等より、その子の方が母さんの為にがんばったんだから。 』
らいふ 『 でも、入籍前だから、苗字どうしよう・・・。 』
叔母さん 『 そんなの分かんないんだから、〇〇(らいふの苗字)を名乗らせれば、いいよ(笑) 』
と、十数人の親戚の叔父さんも叔母さんも、誰も異論も唱えずに、快諾してくれた。
おかげで、パンチは入籍前なのに嫁待遇で、母親を見送ることが出来たのだった。
それから3年の月日が経っているが、母親のことを想うと、
いまだに私もパンチも涙が出てきてしまうんですよね・・・(笑)
でも、暗くなったりして涙が出ている訳ではないんです。
私もパンチも、やりきった感があるので、後悔もしていないし、
自己満かもしれないけど、満足している所もあるしね。
だから、母親とは、 ” 良い別れ ” が出来たんだと思います。
そう、10月21日までは思っていました。
とっても長い文章を、最後まで読んでくれた方は、本当にありがとうございます!!
後半も書きますので、良かったら、そちらも読んで頂けると嬉しいです♪
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